大津菓子の伝承は、鶴里堂のあゆみ
大津は、江戸時代より菓子処として名高く東海道を往き交う旅人や港町の名物として、また、三井寺さんをはじめとする寺院や武家の用達として、「京都の如くなる菓子屋」が「万の菓子」を製造していたことが「近江輿地志略」(1734)等に記されています。
そんな地で修業をした初代は明治29年に大津菓子調進所 鶴里堂を創業しました。鶴里堂という屋号は、昔、比叡山より望んだ大津の里が細長く弓形(ゆみなり)で、鶴が翼をひろげてまさに飛び立とうとする姿に似ていたことから「鶴の里」と呼ばれていたことに因んでいます。
この年は未曽有の大洪水が発生し、大津の街の大半が琵琶湖の水に浸かりました。
大津菓子の伝統と、それを踏まえた創意工夫で、茶家や寺社そして大津の町衆に支えられ弊舗は大津を代表する菓子舗へとなっていきます。
大正6年には県下で大演習中の大正天皇のお買い上げの栄に浴しました。(続く)
大津菓子の伝承は、鶴里堂のあゆみ(続き)
また、昭和の太平洋戦争中の統制経済下に於ても皇室や軍関係者来県時の御用菓子屋として特別に砂糖等原材料の供給を受け、大津で唯一営業を許可されておりました。釜の火を落とさずに済んだことが、大津菓子の伝承に大いに寄与したことは想像に難くないところです。
今日でも弊舗の菓子は、大津の四季の移ろいを表現した上生菓子を中心に、「残したい日本の音風景100選」に選定されている「三井の晩鐘」の伝説に因った伝説干菓、御井(みい)や伝教大師最澄縁りの比叡山の千年杉を、相伝の技を伝える本煉羊羹に写した比叡杉羊羹(ひえすぎようかん)など、大津ならではの大津菓子です。大津菓子調進所という名が表すとおり、京菓子と並び称された「大津菓子」の流れを伝える和菓子の老舗として、1世紀以上にわたり東海道筋上京町(かみきょうまち)に店を構えています。
江湖各位をはじめ、御用を承る三井寺さんや近江神宮様など寺社の方のほか、茶家各流の皆様にもご贔屓にあずかっています。
かるたの聖地 近江神宮とのエピソード
近江神宮は、第38代天智天皇をおまつりする近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社で、昭和15年に創建されました。
弊舗は創建以来の御用達として、ご縁を頂戴してまいりました。
婚礼や勅使ご参向等、折々のお菓子をはじめ、かつては夏越の丈祓(6月30日)に斎行される饗宴祭に、お団(団喜)曲(まがり)ぶとと呼ばれる唐菓子(からくだもの)をお納めしておりました。
これは、米粉や小麦粉等をこねて、あるものは中に木の実等を入れ油で揚げたもので、奈良時代に中国から伝わった和菓子の原形となるものです。
三井寺とのエピソード
三井寺さん(天台寺門宗総本山園城寺)とのご縁は、弊舗初代が三井寺北院の名刹法明院の融照敬円(直林寛良)師の知遇を得、お菓子を納めたことに始まります。
融照敬円師は、日本美術の宣揚に努めたフェノロサや、日本美術に傾倒したビゲローと親交を深められました。両氏はこの地に眠っています。(続く)
三井寺とのエピソード(続き)
当時、山内の法明院までお菓子をお届けする手段としては、徒歩しかなく、夕刻になると辺りは真暗になります。使いのまだ子供であった二代目は怖くて仕方がなかったそうで、師が「遠いところをよく届けてくれたからご飯でも食べていけ」という有難い申し出を早々に辞して、一目散に帰ってきたというエピソードが伝わっています。
以来、様々な法要に用いられる菓子をはじめ三井古流煎茶道の茶席菓子等、三井寺御用達の唯一の菓子舗として、今日に至っております。
書家 山本竟山先生揮毫の
大津市景観重要広告物
弊舗外観正面を飾る庇看板の、欅製一枚板に彫られた「鶴里堂」の三文字は、京都で活躍した書家の山本竟山先生(1863~1934)の書によるもので、平成22年の「第一回大津市景観重要広告物」に指定されています。
本歌の扁額は、店舗内正面に掲げています。是非ご覧くださいませ。
受賞・メディア掲載
受賞
おうみの名工
金賞 比叡杉羊羹
日本食品衛生協会長表彰
厚生労働大臣表彰(食品衛生有料施設)
メディア・雑誌掲載
読売新聞(琵琶湖景観公認お土産)、ひととき(ウェッジ)、HanakoTRIP(マガジンハウス)、
DiscoverJapan(枻出版社)、もっと大人の泊りがけ(京阪神エルマガジン) 他多数